私は1975年12月に初めてインドに来ました。何故インドであったかと言うと、神秘性と物価の安さと、その頃の日本の高度経済成長に対する反発があったと思います。そして暑い所が苦手で、ヒマラヤの魅力に取り付かれた私はチベット仏教に出会いました。ダージリン、ネパール、そしてダラムサラでした。そしてダラムサラでダライラマ法王の師匠のリンリンポチェに出会い、頭を剃って、チベタンライブラリーでチベット仏教を学ぼうとしました。が、分かりづらい英語の通訳と、チベット語に挫折しまして、図書館にありました日本語の仏教書を参考にして修行をはじめました。

 インド社会は私のような、初心の比丘でも尊敬してくれて、修行の場を与えてくれました。そしてビザが切れてスリランカに渡り、またスリランカ全土托鉢をしました。そしてインドで当時96歳だった藤井日達上人の弟子にさせてもらいました。都合3回出家得道した事になります。チベット仏教、上座仏教、日本仏教です。しかし、晩年の藤井上人は日本におられて、私はビザの関係で半年インド半年インド以外の国で托鉢をして5年間日本に帰りませんでした。そしてインドを離れてアメリカに半年居た時、チベット高原のラダックでお寺を建てる決心をしました。

 その経緯は、1978年単身デリーで修行しようとデリーに着いて、知り合いの所に何泊かしましたが、遠慮してニューデリーの駅の待合室で寝泊りして托鉢していましたが、20代前半の仏教僧が托鉢をしているのが話題になりまして、ラダックの仏教徒が自分たちのお寺の一室を提供してくださったのがご縁の始まりでした。そして、当初の私の目的であったデリーの寺院建立が頓挫して、落胆している私をラダックに招待してくださりました。

 そして、ラダック仏教界が私に正式に寺院、仏舎利塔建立の依頼を受けました、これが私の本格的なチベット仏教とのご縁の始まりでした。当時ラダックはイスラム教が仏教徒を改宗して大問題になっていた時期で、ラダックの人々は世界宗教である仏教が少数民族の劣った宗教であるというインドの扱いに不満を抱いていて、日本の仏教の精神的サポートを必要としていました。
 しかし日本側は70年代まだ、ラマ教と言う認識で私のラダックでの活動は評価されませんし、批判もありました。ダライラマ法王がノーベル平和賞をもらう以前の話です。その時インド中央政府、インディラガンディー首相は、仏教徒を公式に支援できない立場、(宗教に肩入れできない)しかし少数民族をイスラムから守る為に、日本との友好という視点で私の活動を支援してくださり、中央政府の予算で、小高い山までの道を中央政府直轄道路(国道)として作ってくださりました。

 経緯はまたおいおい述べますが、日本人として、初めてチベット高原に大きなお寺と仏舎利塔を作るご縁をいただいたのはそういう状況とラダック仏教徒のボランティアと日本の経済発展特に円高要因がありました。26歳から36歳の間、10年間チベット高原に籠もりまして、お寺を建立しました。

 最初の2年はダイナマイトで山を平らにする作業でした。
 そしてラダックの人々も世界宗教としてのチベット仏教に目覚め始めました。1985年はお寺の開眼供養と仏舎利塔の地鎮祭にダライラマ法王をお迎えしました。このような10年間の隠遁(隔離)修行でチベット仏教の成り立ち、厳しい環境から生まれた、強烈な信仰心、砂漠の色のない長い冬をすごした人々の極彩色に精神性を感じる感性を肌で体験しました。

 チベット仏教は厳しい3000メートル以上の高地における、酸素不足がもたらす、瞑想の境地、長い思索が出来る冬、インドと中国に挟まれた文化の融合、色々な要素で日本仏教にない独自の色合いがありますが、チベット独自というより、地理的、歴史的、環境の違いによって、日本仏教と少し違う面もありますが、本質的には正統な大乗仏教であると確信しました。

 ひとつのプロジェクトを完成するのはとても集中力が必要でした。ラダック、デリーと立て続けて寺院建立をしましたので、学術的、または思想的なチベット研究は出来ませんでしたが、常にヒマラヤ仏教徒(亡命チベット人を含む)からの支援を受けて私の人生が今まできました。
 これからはご恩返しの時期が来たと思っています。幸いな事にラダックのお寺はラダックで一番参詣の多いお寺になり、ほとんどの人々が日本寺と認識せず、ラダックシャンティストゥーパーと認識しています。またデリーのお寺もダラムサラを訪れる世界中の人々の憩いの場所になっています。

 皆様は日本での活動の上にチベット支援をされていますが、ここデリーとラダックは活動自体がヒマラヤ、チベット仏教の活動の中心地になっています。
今はオーストラリア人のチベット尼僧とラダックの著名の学僧がデリーの私のお寺で修行してます。

 これからすこしづつ、ラダックやデリーに来られるチベット関係の人々の紹介をしていきます。今回は何故私が33年インドに居るのか、どういうお寺の立場かを説明させて頂きました。1981年当時ほとんどラダックの私のプロジェクトは日本人に理解されませんでした。デリーにおいての超宗派の世界仏教徒センターも理解されませんでした。今やっと認知されるようになって来ました。

合掌
中村 行明