33年の間、インドでお寺を建てる事が出来まして、21世紀の始まりに宗派、教団を離れて、世界仏教徒センターとして、一仏教僧として、夏はラダック、冬はデリーと世界の国の仏教徒と一緒に活動をしています。
 デリーは世界の巡礼者が、飛行機の関係やヒマラヤ、ダラムサラ、または仏蹟巡礼の折に経由する地であり、インド11億人の首都でもありまして、とても重要な土地です。

 今日は、私のとても親しい、ある面では弟のように慕いあっているラマさんをご紹介します。
 ラマ・アチャリア・プンソック上人。48歳。
 彼はチベット亡命政権の国会議員をしています。このお寺の近くに住んでいます。彼の事務所もダライラマ法王事務所もこの近くです。(歩ける距離)ここは東京で言えば渋谷ぐらいの感じの場所です。とてもよい土地です。

 チベット亡命政府は現在定員46名の内、43名居ます。3名はダライラマ法王指名の知識人ですが現在空席だそうです。
 中国に実行支配されている、現チベット自治区の3県から10名づつ30人と4つのチベット仏教宗派、カギュ、ニンマ、サキャ、ゲルッパから2名づつ8名、ボン教から2名、ヨーロッパ移住チベット人から2名、アメリカ、カナダ移住チベット人から1名の選挙区と割り当てで選挙されます。5年の任期で春と秋が国会の会期期間です。

 彼は西チベット出身の両親の元、ラダックで生まれました。そして6歳の時ダージリンの近くのカリンポンのセントラルスクールオブチベタンラングエッジチベット人学校で初等教育を受けました。そしてシムラの同スクールで高学年を過ごし、ベナレス、サルナートのベナレスセントラルインスティチュートオブチベタンスタディースで大学院まで教育を受けまして同図書館で3年勤めまして、ダラムサラに比較的近いマンディーの近くのチベット人学校の歴史文化言語の先生をしていた所、1994年チベット国民民主党の結成の話がありまして、党に入りまして、事務次長を務めて、97年から2004年まで党総裁をして、それからシンクタンクである、チベット政策、国会調査機関の事務局長をしながら、国会議員をしています。亡命政権の国会議員の中で僧侶は10名です。これを見てもチベット仏教とチベット政治、行政が深く結びついている事が分かります。

 1959年ダライラマ法王が亡命された時、インド初代首相のネルーが真っ先にインドの国家予算でした事は現在インド国内45学校、ネパールやブータンを含めると86校あるチベット語によるチベット人教育機関の設立とチベット居住区の設立と、インド軍内、チベット部隊の設立だったそうです。

 彼はこのネルー首相の先見的な判断でチベット亡命者は救われたと言われています。
 私より6歳年下ですが、これからのチベット社会を指導するバランス感覚はすばらしいです。長い事、インドに居ましたので、サンスクリットやインド思想も取り入れガンディー思想を元に、古のチベット人たちがナーランダ大学の系譜を継いだように、インド近代現代の非暴力政治を継いでます。
 彼は毎朝、ここに参詣して経文を唱えて仕事に向かいます。時々このお寺で食事をしながら、意見、情報を交換します。

 彼は厳しい戒律を守り、妻帯せず、肉食せず、夕食せず、政策イデオローグであり、国会議員でありながら、信仰を実践しています。サムドンリンポチェもこのアチャリアプンソックラマも往年のマハトマガンディーのように社会運動、政治運動と信仰が結びついています。こういう現在のチベット人共同体の中の良心的人々を紹介していきたいと思います。

 アメリカや欧州に独自に教勢を広げていくチベット仏教教団や指導者も居ますが、彼のようにチベット人共同体の底辺を支えて、あまりチベット仏教伝道布教を海外に展開するのではなく、仏教の菩薩行を黙って実践するラマ僧も居る事を紹介したくて、この文を書きました。現在ではチベット僧の海外伝道により仏教は世界的に広まり、多大な影響を世界に与えていると同時に西洋や日本の悪影響を受ける場合もあります。

 まだ多くのチベット人(亡命)またはインド内ヒマラヤ仏教徒はつつましい生活で功徳を積む修行をしながら、生きています。

合掌
中村行明