当会関東ブロックでは、去る平成21年1月10日に、当会幹事である井本勝幸氏を講師に迎えて講演会を開催した。テーマは「国際チベットサポート会議の報告・仏教経済学概論」。チベット問題を始め、世界各地で止むことを知らない紛争の背景には、現状の経済システムがある。貨幣経済が隅々まで行き届く一方で、貧困層の固定化が進み、教育チャンスから排除される人々を生む。追い詰められた貧困層は、より低賃金、より悪環境へと追い詰められ、暴力やエイズの誘引など負の連鎖を招き続けている。こうした貧困層を拡大し続けることで成り立つ現在の世界経済のあり方とチベット問題は決して無縁ではない。むしろ、今日の経済のあり方、金融資本のあり方、市場経済のあり方の中に、チベット問題をはじめとする世界各地の紛争の根っこがあるのではないか。
『苦しみの因を問う』ことを基本的な姿勢に持つ仏教徒として、社会の仕組みが苦しみの多くを生み出しているのではないか、との気づきからこの苦の原因を探り、そのような苦しみを生み出すシステムからの脱却を目指すことは、大切なことではないだろうか。そこで、あらためて「チベット問題の解決のためには、いったい何が必要なのか」という問題意識から、関東ブロックでは、問題解決に向けて経済システムのあり方を問い直す学びの場を設けた。
講師の井本師は、アジアに広がる仏教徒のネットワーク「四方僧伽」で、普く人々に幸福をもたらす経済のあり方を追及し活動している。現在、井本氏たちの新たな取り組みにおける『仏陀銀行』とは何か。その講演会に参加した、当会幹事の本多静芳師のリポートを以下に掲載する。

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井本勝幸師の仏陀銀行の主旨を聞いて
現行の金融システムとは何か?

 師の仏陀銀行の設立の意義を学ぶことによって、今まで理解していなかったことが沢山分かってきたことに非常に大きな意味があると思う。
 先ず、現在の経済金融市場に関わるということ自体が、結果として、西洋型の経済資本主義の市場のあり方を容認することだということだ。そして、それは必然的にそこに派生する投機的な金融の分配を偏って成り立たせることになる。確認すれば当たり前のことだが、普段気づくことのなかった認識を持つことができた。
 ところでこの投機的市場を背景にする莫大な金融の動きは、実質経済を伴うことがないまま経済的な富の偏在をもたらすことになっている。例えば一昨年の国際間の金融取引は年間約三〇〇兆ドルといい、相場の成り立つ日毎に平均すれば一日一兆ドルであり、しかもその九〇%以上が投機的な短期資金が動いているに過ぎないという。
 そのために、そうしたあり方を問いにせず、現在の金融市場をそのままにして被援助国に開発のためだといって経済的な支援を行うことは、一時的な富の移行を貧困社会にもたらしても、結果として現在の金融市場を温存させ、かえって富の偏在に加担することになる罪作りなことに過ぎないという。

アジアの経済システムを見つめる

 つまり、経済システムそのものを問いにしないままで、NGOや、経済的なボランティアの金融支援にかかわることは、こうした理由によって、根本的な問題解決をもたらすものではなく、現在の金融市場主義を再補填するのに過ぎないというのが井本師の主張である。
 この主張は、現在、一般的なNGO活動をしている諸団体などにとって、いささかショッキングなものである。しかし、政府主導の低開発国支援という名で行われているODAが、今までに大きな経済的な不均衡をもたらしてきたことは周知の事実である。こうした現実の背景には、現在の経済市場で資本の扱われ方が、実質経済を伴わない投機的な金融市場によってなりたっている問題点があると井本師は明らかにされる。
 西欧型の一般的な経済システムが富の偏在をもたらしているために、本来、経済的自立が可能なはずのアジア諸地域の多くの人びとが、ほんの少しの借金を形に、生涯その返済に振り回されている。そうした現実に直面した師が、新たに主張し立ち上げたのが仏陀銀行である。西欧金融市場が投機的な虚構の経済を展開して、農耕、漁業、林業、手工業など、第一次産業という現実的な人間の営みに対してむしろマイナスの結果を出していることの反省から生まれた全く新しい金融システムである。
 現在の投機的金融が跋扈してきた背景にあるのは、利子という名で生まれる架空の経済価値であり、それは実質経済活動を伴うものではない(無論、現在のシステムの中にある人びとは、決してそうは思わないし、それをまるで空気のように当たり前のものと受けとめている。私自身も井本師の説明を直接聞くまでは自分の問いにならなかった)。そのために、利子によって、架空の経済価値が生まれている以上、それは結果としてマイナスの現実的な経済損失を被る人びとが生まれる。これは、現在の言葉でいえば、「勝ち組」と「負け組」ということであろう。
 師は、アジアの諸地域で、第一次産業をもとに暮らす人びとの生活によりそい、たとえば、たった千円があれば経済的に自立できるにも関わらず、その千円を架空経済を背景にして利子を生ずる金融システムの中で借りてしまったがために(師にいわせれば、借りさせられたために)生涯をかけてといってよいほど、利子を返し続けなければならない人びとがおり、また、そうした経済システムに乗って、巨万の富が偏在していることになるという。

利子をどう捉えるか?

 さて、西洋の経済は、相手との取引から利潤を生み出すということを前提として成り立っている。この経済の発想のもとになるのは、自分と相手を主客二分して判断することであると私は受けとめた。そのように関係性を二分することによって私たちは相手を対象化、客観化することができる。そして、そのような関係性に立つからこそ、相手を切り離した私がいくらでも利潤としての利子を受ける事に何ら倫理的問題を考えなくてもいいシステムをつくり出したといえよう。
 つまり、西洋の発想を背景として成り立つ経済の利子というシステムは、相手との関係性の中で、金銭を合法的に移行する措置として十分に機能し、またそれが次の利子を合法的に獲得することを可能にしている。こうした経済市場において利子という利潤を求めようとする投資家がいるかぎり、その利子を補完するために、利子を常に生み出す提供者を担保していなければこのシステムは成り立たず、そこに架空の金銭が動くということになる。
 一方、東洋の発想は、主客二元という分別の論理を見据えつつも、なお、自他一体の縁起の論理がもとにある。このことは端的に、明治維新以降、日本に自然という視点が生まれたことにもその問題性が伺える。明治以前、もともと自然と書いてじねんと呼ぶのが、一般的であった。その自然(じねん)は、ものごとが縁起によって自ずとそうなっていることを示す言葉である。明治以降、私を離れた海や山などの対象的で客観的な自然という感覚を日本人は受容してきたが、それ以前は自他一体の縁起観がもとになっていた。もっとも昨年2008年朝日新聞にも紹介されていたが、アイヌ民族でも対象的な自然(しぜん)という概念はなかったという。
 私は、井本師の提起している経済システムの全てを理解している訳ではない。しかし、今まで西洋の主客二元の論理から生まれた経済を当たり前にしてしまっている。が、私とあなたは同じいのちを分け合って生きている、そして、今たまたまお互いがお互いのいのちを生きているから、経済的にも、たまたま貸借関係が成り立っていると受けとめるのが自然であろう。
 仏陀銀行では基本通貨単位をボーディ(目覚め)と呼び、利子の代わりに貸しだし金の一割を地方で通用するチケットとする。それによって、地域での具体的な「はたらき」をやり取りするのだ、例えば自転車屋さんならその専門の技術を、マッサージの上手な人はその技術を、などなど、金利の代わりとなるこれらのやり取りが結果として地域の経済循環を活発化していく。つまり小規模融資がより縁起する社会に適合した金融であるという訳だ。
 地方のサンガ内での経済循環社会を目指すとき、大変有用な既存の信用組織が寺という仏教文化を中心とした檀家制度という職能集団という訳である。
 ここで私たちの心を経済価値の生き方から、支え合い分かち合う縁起価値への生き方への変換が問われているといえよう。何故なら私たちは、余りにも大きな金融制度の破綻を目の前にしているからだ。

本多靜芳 2009.01.10(土)